奥会津・只見川ラインの景色を眺めるスローライフの旅ー

たもかぶ本の店
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お店の記事
 
2008年11月19日

● <南会津の森から107>ご愛読ありがとうございました


 只見町の長浜に7年前から移り住んで、ヴァイオリンつくりをしている冨川さんが「農家と同じように、夜明けとともに起きて一仕事してから朝ご飯を食べて夜は早く寝る生活が夢だったんで実現して幸せです。都会にいるときはかんなやのこぎりの音、ニスの匂いも周りに迷惑をかけていたけど、ここでは思う存分、だれにも気を使わずに仕事ができる。」と楽しそうに話していた。大企業のサラリーマンをしていたのにやめて収入は何分の一かに減ってしまったが、体が動くうちは自分の好きなことを続けられる。定年まで勤めてからでは、実現できなかっと思うとも話されていた。ヴァイオリン作りだけでなく、レストランや喫茶店、漫画図書館や古書店、天然酵母のパン屋さんを始めた人もいる。いろんな人が自分の夢を実現しに農村に移り住んでくれるような農村を作ることがわたしの夢だったので、少し実現した気分になる。
 わたしは子供の頃、マンガ家や小説家になりたいと思っていた。農家の長男だったけど、体力や運動神経が極端に乏しくて、体力勝負の農業にはむいていないと感じてた。漫画や小説なら人よりおもしろいものが書けるという自信があった。でも、自分の家の農業を継がないといけないと言われ続けて、中学の頃はその気になっていた。農業をするのなら、体力で勝負をするのではなくて、作る作物や作る技術で人に負けないことをしたいと、農業関係の雑誌や本を読み漁り、鶏を飼って卵を売ったり、フキノトウを塩漬けにして山菜加工所に売ったりもした。やればやるほど、知れば知るほど、日本の農業や農村は法律や行政指導や補助金で縛られていて、やる気のある人が自分の好きにできない、行政の下請けの作業員のようなことになっているのだなと感じた。もっと農家が好きな作物を好きなやり方で作って、直接消費者に売れる、作っているところを見に来てもらえるような農業や農村にしたいと思った。
 それからずっと、自分の考えを書き続け発信し続けている。ミニコミ誌の発行は14歳の時から40年。自分の職場のたもかくの仕事を通じて自分の夢を実現しようと取り組み始めて25年。実現した夢もあれば、実現までははるかに遠いと感じることもある。でも、あきらめずに続けていることに充実感がある。あきらめずに言い続け、やり続けていれば、きっと実現に近づくと信じている。
 つい最近、わたしの会社の株主になってくれたお客さんがうれしい手紙をくれた。
 ≪今回、貴社とおつきあいを再開させていただくにあたり、本棚の奥から「これからは田舎暮
らしがおもしろい!」を引っ張り出して読み返してみました。平成2年の第1でしたので、約17年前に貴社の活動を知り、たもかく誌の購読を始めたことになります。 その時点で既に貴社の株を購入しようかどうか、と考えてはいたのですが、やはり只見が遠いということで二の足を踏んでいるうちに、妻と結婚する、子供が生まれる、家を建てる、ということで日々忙しくなり、たもかく誌の購読が切れてしまいました。その後、少し子供が大きくなって、何回か只見に遊びに通っていて、「たもかく本の街」の前
も通っているのですが、遊ぶ時間が足りなくて立ち寄れず「『たもかく』やってるなあ」と横目で眺めつつ通過しておりました。
 今回の株式購入は、私が稼いだ金ではなく、先年死去した父の遺してくれた資金によるものです。写真が趣味の父は、最後に旅行した只見の自然を何枚かの美しい写真に残して逝ってしまいました。
 わずかではありますが、父の遺産が、土建行政に使われる国債やら、得体のしれないファンドやらへの投資ではなく、「たもかく」の森を守る活動に生かされることを誇りに思います。≫
 南会津の森からは今回で終了です。長い間、ご愛読ありがとうございました。

--- たもかく ---
 
2008年11月18日

● <南会津の森から106>寒い国の資本主義


 南会津町の旧南郷村、東地区にスェーデン料理のレストランとペンション「ダーラナ」が開業して15年になる。最初の頃はスカンジナビア航空の職員や北欧の大使館関係者が来て「外人がぃつぺぇ来てる」と評判になっていた。このごろは、地元の人も良く利用している。建物はまがり屋作りの農家に土蔵がついた、この地域独自の作りの農家をリフォームした茅葺屋根でなつかしいのにどこか北欧調な印象 もあって、エキゾチックな感じがする。
 1960年代のまだ日本人の海外旅行さえ珍しかった時代に10代でスェーデンに行き10年以上料理の仕事をして、日本で初めてといわれるスェーデン料理のレストランを西荻窪に開業して成功していた、大久保さんが南会津町に移り住んで経営している。日本の大都会のリズムに疲れて、北欧のような歴史や環境や人のおもしろさを求めてあちこち見て歩くうちに、南会津町の廃屋の建物の木材の骨格の太さや土蔵の漆喰壁の魅力に惹かれたそうだ。
 わたしも同じ時期に、同じように、この地域のまがり屋の保存やリフォームに取り組んでいた。そして、大久保さんがまがり屋を購入してリフォーム工事をしていたことは17年前から、レストランやペンションを開業したことも15年前から知っていたのに、大久保さんと知り合って、世間話をするようになったのはのは7〜8年前から、ダーラナの店の中に入ったのはわずか3回くらいだ。
 わたしは小学生の頃、図書室の外国の街並みの本で、スェーデンにも日本の農家と同じように茅葺や葦葺きの家がたくさん残されていることを知った。寒くて日照不足の土地が多くてヨーロッパでも一番貧しい地域だったこともあったのに、第一次、二次の世界大戦に加わらない間に、無駄の少ない産業構造、デザインや機能の質の高い工業製品を作ることで世界最高水準の豊かな国になったということを知って、ずっと強い興味を持っていた。
 その頃日本の農村では、夏の間土木作業員をしていた人が冬になると失業して雇用保険をもらっていたけれど、春になればまた同じ会社に再雇用される仕組みで、子供ながらに強い疑問を感じていた。スェーデンでは何年も失業手当を支給しながら、失業した人にもうこれから先失業しなくて済むだけの高い技能を身につけさせようとしていた。生活協同組合が、スーパーのように全国規模でセルフサービスの大型店舗を運営して、流通や雇用の無駄の少ない仕組みも作っていた。10代の子供が夜の公園で遊んでいても、信頼して自己責任に任せるとか、朝鮮戦争のやベトナム戦争の孤児を受け入れて、国の人口の1割くらいがアジア系になってしまったとか、驚くようなことだらけだった。日本の東北の農村にもスェーデンの良いところを取り入れたいというのが10代、20代の頃のわたしの夢だった。それなのにたいしたこともできないまま時間が過ぎた。
 大久保さんのスェーデンでの生活やダーラナというお店の料理には強い興味があったのに、ゆっくり話を聞くことも無く、食べてみたいと思っていたスェーデン料理を食べることも無く、15年も過ぎてしまった。わたしと同じように行ってみたいのにまだ行ってない人がたくさんいるような気がする。

--- たもかく ---
 
2008年11月14日

● <南会津の森から105>どぶろく特区


 只見町の入叶津という集落で、原木マイタケの栽培と「やまかのうや」と言う民宿を経営している泉太さんが、どぶろく特区の免許を受けて、製造販売しているどぶろくが好評だと聞いて見せてもらいに行った。台所を改造したステンレス製の製造設備は新しくて、きれいに手入れされていてた。造ったどぶろくもプラスチックの容器に詰められ、専用の冷凍庫で保管されている。
 わたしが子供の頃に農家が税務署の摘発を恐れながら、こっそり作っていたどぶろくよりもずっと管理が行き届いているように見えた。どぶろくを作るのは、法律には違反していても、ほとんどの農家が隠れて作っていた。取り締まる法律ができる前から作っていたということもあるし、ミソや醤油、甘酒など自家製の発酵食品を作りなれている農家には作ること自体が楽しみでもあった。高度経済成長時代に公共事業が増えて、土木作業員の仕事など、農業以外の安定収入ができるまで、米の出荷代金が秋に、養蚕の出荷代金が年に数回は入るほかは現金収入が少なかったので、毎日飲む晩酌の酒まで酒屋で購入することが難しかったということもある。
 今では味噌屋さんに変わったお店が多いが、麹屋さんも今よりいっぱいあって、味噌用、どぶろくや甘酒用に麹を買い、自分の家でお米をふかして麹を増やすこともあった。どぶろくつくりは寒い時期にしかやっていなかった記憶だ。暖かい時期だと酢酸菌などの雑菌が入って酸っぱくなったりしてうまく作れないということもあるが、冬の農閑期でないと、農作業が忙しくて、作る手間も無かったのだと思う。毛布をかけられた大きなホウロウの桶に仕込まれた麹とふかした米と水が、醗酵を始めると熱くなってくる。出来を確かめるために、たまに大人がのぞき込むと白い泡が立っている。子供がのぞいたりすることは禁止されていた。一〜二度、茶碗ですくって、醗酵している最中のどぶろくを飲ましてもらったことがあった。炭酸がぴちぴち跳ねて、甘いサイダーを飲んでいるような不思議な味だった。醗酵が収まった頃に布で濾してビンにつめていたが、にごりは取れなかった。濾した酒粕も、煮物や漬物に使って、捨てることは無かった。
 東京オリンピックの準備が進む頃、農村でも道路や橋の工事が増えて、ほとんどの農家が土木作業員を兼業するようになり、毎月安定した収入が入るようになると、どぶろくつくりをする農家は無くなった。昼間働いて、朝晩に自分の家の農作業をするので、買ったほうが安上がりなものは自分の家では作らなくなった。失敗してすっぱいどぶろくを造ってまずいのにがまんして飲むのも嫌だし、どぶろくよりも売ってる清酒を買ったほうが手間を考えれば安上がりだ。どぶろくつくりをやめた頃酒かすもお店で買うようになったが、酒かすだけは自分の家のでないとまずくて食べられないと大人たちがこぼすのを良く聞いた。
 やまかのうやの泉太さんが作ったどぶろくは、子供の頃に自分の家で作っていたどぶろくよりもおいしいと感じた。そしてちょっとなつかしい感じもした。
 
2008年11月12日

● <南会津の森から104>進むサザエさん現象


 只見から都会へ出て行った娘が結婚して、出産するときには田舎の母親が都会へ行って、しばらくの間、子育てと家事の手伝いをするという習慣が定着している。短くとも1ヶ月くらい。長いときには半年を越えることさえある。特に母親に勤めが無くて、年金暮らしのときには、期間が長くなるの傾向が強い。結婚や出産の年齢が30歳前後まで上がり、母親が年金暮らしの人が増えたり、勤めをやめても孫の育児を手伝ったほうが、都会の娘が勤めをやめずに済むメリットのほうが大きくなっているのかもしれない。なんと言っても、今孫が生まれている50代、60代の人たちは都会生活の経験がある人が多く、しばらく都会で暮らすことくらい負担に感じない世代に変わってきているからできることだろう。
 一度も都会で生活したことの無い、ちょっと前の世代には考えられない習慣だ。言葉も習慣も違うところで生活した経験が無いばかりか、自分の家を長期間はなれた経験が少ないので、面倒を見るどころか、足手まといにさえなってしまうかもしれない。それと、古い世代の人ほど、娘は「嫁にやった」という意識が強くて、面倒を見るのは、長男の嫁や内孫、男系の孫という意識が強かった。そういう意識では、娘の嫁いだ先へ手伝いや子守に行くという気持ちにもなりにくい。
 かつては、第一子を出産するときは実家へ帰って出産し、勤めは子育てに専念するために結婚や出産を機会にやめてしまうというのが一般的だった。でも今は、勤めを継続しながら子供を育てている人が多い。都会の生活スタイルの変化が田舎の母親達の生活スタイルも変えているのだろう。行く先は大都会ばかりとは限らない。長崎や小笠原、北海道でも近畿でも、娘の住居のあるところならどこへでも出かけていく。
 只見町にも、他の地域からお嫁さんがたくさん来ているが、只見の娘のところへよその地域からおばあちゃんが手伝いに来ているというケースたまに見るけれど、只見から都会に行くよりはずっと少ない感じがする。都会と田舎の差というよりは、只見に嫁ぎ先のおばあちゃんがいる場合が多いからだろう。
 わたしの子供時代は第一子は実家で生んで、次の子供からは嫁ぎ先で生んで育てるというのが普通で、自宅で産婆さんが出産の手伝いをするだけで、産院で生むという習慣も無かった。子守はその家のじいちゃん、ばあちゃん、先に生まれ育ったお兄ちゃん、おねぇちゃんの役目だった。近所の子供にわずかな駄賃を上げて子守をしてもらうという場合も多かった。父親、母親は仕事が忙しくて昼間は育児どころではない雰囲気だった。
 ずいぶんと出産や子育てのスタイルは変化が激しいが、田舎と都会の時間的な距離や、精神的な距離が縮まって赤ちゃんやお母さんは精神的に楽になっているのかなと思う。
 
2008年11月11日

● <南会津の森から103>野菜のくれやっこ


 仕事を終えて家に帰ると玄関に野菜が置いてある。近所の人や親類が持ってきてくれるのだ。今は秋野菜の収穫の時期なので、白菜や大根、ネギなどが多い。夏だったらナスやトマト。1年中切れ間なく、2、3日  おきくらいには誰かが何かを持ってきてくれる。
 わたしも朝晩に少しは畑で野菜を作ってはいるが、片手間で、農薬も使わないし、肥料も足りないらしく、それほどたくさんは取れない。もらう野菜のほうが、じぶんで収穫する野菜よりもずっと多いくらいた。それでもごくたまにわたしも自分の家だけで食べきれないほどのサントウ菜やホウレン草ができることがあり、そういうときには、できのよくなかった人や、作らなかった人にあげたりすることもある。もらう量が圧倒的に多く、あげる量はほんのわずかでバランスが取れていない。農村に住んでいると畑を作っていない人がもらう一方になってしまう。
 農家同士の間では、足りない人にばかりあげるというわけでもない。お互いに食べきれないほどのナスやかぼちゃを作っている同士ても、品種が違ったり、肥料のやり方で味や色や形も違うので「おらがえーわたしの家のーナスくってみろ」「こどしはこったがな作ったがら、食ってみねぇが」とあげあいをする。地元では「くれやっこ」といっている。
 この野菜の「くれやっこ」の習慣のおもしろいところはたくさん取れた人が持ってない人にあげるというわけでもないところだ。どんなにたくさん取れても、嫌いな人や仲の良くない家にはあげない。逆に仲がよければ、たくさん作っている人同士でも、頻繁に「くれやっこ」をする。野菜をあげあうことで、お互いの仲がいいことを確認しあっているようなところがある。都会のお中元やお歳暮のようなことを、自分地の野菜で毎日やりあっているようなものかなと思う。
 都会から移り住んだ人たちが、一番最初に驚く田舎の習慣だ。引越しの挨拶でお菓子を持って回った翌日に玄関にスーパーの大きなレジ袋いっぱいのナスやトマトが届いていたなんて事が良くある。だが、誰がくれたのか見当がつかないことも多い。「どうすればいいんでしょう?」ときいてくる人もいる。
都会の人からすると、とても食べきれないような量で、お礼をいったりお返しをしたりしないといけないだろうと悩むようだ。地元になれてくれば、そんなにあわてて野菜を届けた人を探さなくても、会って挨拶や世間話をしているうちにわかるようになる。お返しも、もらったからすぐに、同じくらいの価値の物を返すというのではないほうがいい。次に来るときにお菓子を届けるのでもいいし、夏の暑い日の畑に冷たいジュースでも届けたほうが喜ばれるかもしれない。
 あげるものの経済的な価値よりも、あまり自分の負担にならないように、どれだけ相手の喜ぶようなことができるかのほうがずっと重要なようだ。
 
2008年11月10日

● <南会津の森から102>戸風呂とストッカー


 もう10年以上前からだが、冷蔵庫のほかにストッカーと呼ばれる冷凍庫を持っている農家が増えている。入れるモノは、キノコだったり、鮎やイワナ、トウモロコシやエダマメだったりいろいろだが、旬の時期には、食べきれなかったり、時期はずれに食べたい農産物やキノコを採っておくために使うのが一般的だ。都会の人なら冷凍食品でも入れておくのだろうが、農家は農産物や、キノコや山菜が中心だ。大きな冷蔵庫があるのに、わざわざ、ストッカーまで買って保存するのは自分達が食べるためでもあるが、都会から遊びに来る子供や孫に季節はずれでも、田舎のおいしいものを食べさせたいと言う気持ちが強いようだ。
 冷蔵庫が普及し初めたのは、テレビよりちょっと遅れてはいたが、東京オリンピックの前で、昭和30年代の後半だった。冷凍食品など普及してない時代だから、冷蔵庫を使う一番の目的は、夏にご飯や、おかずを悪くしないで置くためだった。次が氷を作って、飲み物に入れたり、飲み物を冷やしておくためだった。
 今なら、ビールを冷やすのも冷蔵庫の重要な役目だが、普及し始めころは、まだ小さくて、ビールをたくさん冷やして置けるほどの容積もなかったし、お酒と言えば日本酒の時代だった。たまに飲むビールは主に、流水で冷やしていた。冷蔵庫が普及するのとほぼ同時期に、粉末のジュースの素も大流行した。今考えると本物の果物を搾ったジュースの味からは遠くかけ離れていた。オレンジジュースはオレンジ色、ブドウは紫、りんごはクリーム色で、人工的な香料でそれらしい匂いがついてはいて、当時はそれでも十分贅沢な感じがした。
 冷蔵庫が入る前までは、食べ物は木製の「戸風呂」と呼ばれる食品棚に入れていた。台所にも置いてあったが、居間の台所よりの場所に作り付けで作られているのが一般的だった。下の段には乾物やそうめんなど保存用の食品が入っていて。上の段に、毎日のおかずの残りなどを入れておく。今よりもずっと塩分の濃い味付けだったのに、朝作ったものでも、夏は夕方にはすえて悪くなってしまうので半日だけしか保存できない。それでも捨てるよりはずっとましだったのだろう。戸風呂に虫やねずみが入ったりしないように、大量の唐辛子も入れてあった。唐辛子が入れてあると、食品の傷みも少ないと教わっていたが、子供のときはあまり本気にしていなかった。おとなになってから、唐辛子の辛い成分が、バクテリアの繁殖を抑えるなど、ちゃんとした科学的な根拠もあることを知った。でも、冷凍して保存することには比べようもないレベルでしかない。
 大型の冷凍冷蔵庫の中に入りきれないほどの食品が入っているのに、冷凍ストッカーまで買って、いつでも、食べたいものが保存されている生活は、冷蔵庫さえなかった時代を知っているものには、不思議な感じがする豊かさだ。
 
2008年11月01日

● <南会津の森から101>こたつ


 南会津では稲刈りが終わる10月始め頃からストーブやコタツを使い始める家が多い。都会に比べて1ヶ月くらい早いかもしれない。使うのを止めるのも、5月の末くらいの家が多く、1か月くらい遅い。農作業で体が冷えたり、冷たい水を使ったりすることが多いし、朝晩の冷え込みも厳しいからだと思う。
 最近になって新しく建てられる家では、コタツが無くて、居間は洋式というスタイルの家も少しずつ増えているようだが、お年寄りのいる家なら、間違いなく居間の真ん中に大きなコタツがある。老人の一人暮らし、二人暮らしでも、大家族だった時代の名残か、お盆やお正月に都会から子供や孫が来たときのためか、少ない人数に不釣合いなほど大きな居間に大きなコタツが置いてある。
 なんだか大家族の時代には、昔から大きなコタツがあったかのような錯覚に陥ってしまう。しかし、農家の居間は囲炉裏が使われていたので、大きなコタツが居間の中心に置かれるようになったのは、昭和30年代が終わり40年代が始まる頃、テレビが普及し、囲炉裏で煮炊きをしなくなり、薪の代わりにガスや石油が使われるようになってからだ。
 それまでのコタツは座敷や寝室、居間のはずれのほうの畳をはずすと、枠が石やモルタルでできたコタツ用の炭火を入れる灰床があり、そこにコタツを取り付けコタツ布団をかけて使っていた。コタツは75センチ角くらいの小さなもので、建具屋さんや木工所で木で作ったものが、金物屋で販売されていた。コタツは囲炉裏を保管する補助暖房か、寝室用の暖房という位置づけだった。
 囲炉裏の火を煮炊きに使わなくなったころ、使わなくなった囲炉裏の枠をはずして、大勢で使える巨大コタツが登場した。燃料は練炭コンロ、コタツの天板は今になって考えると安っぽいデコラの花柄模様。テレビが普及するのに負けないようなスピードで普及した。同じころに、寝室のコタツは電気コタツになった。木枠が割れやすい東南アジアからの輸入材で作られているために、ねじ込み式の足が壊れやすくて、2,3年使うと、足を紐や針金、他の木材で修理して使っている家も多かった。電気メーカの暖気コタツに比べると、居間で使われる大きなコタツは飛び切り頑丈に作られていた。
 居間に家族全員が集まってテレビを見るという生活スタイルの時代にぴったりの暖房器具だった。毎朝、練炭を取り替えるのも、囲炉裏で薪を燃やす手間に比べれば比べようも無いほど楽に仕事だった。しかし、なれてしまえばすぐに面倒くさくなって、昨日の使い残りの練炭の上に新しいのをのせて使ったりもした。
 練炭コタツが消えて現在のスタイルである、電気の家具調コタツに変わったのは2度目のオイルショックのころからだろうか。練炭の取替えも必要ないし、色やデザインも木目調で豊かな時代にぴったりだ。しかし、そのコタツに似合う大家族で使われる時間は少なくなっていく。大きなコタツをお年寄りが一人か二人で使っている光景は、寂しい感じがする。

--- たもかく ---
 
2008年11月01日

● <南会津の森から100>印刷室のインクの匂い


 小学生のころ、木造の学校の職員室の隣に印刷室という部屋があった。学校から家庭へのお知らせや、テストの問題、子供たちの文集も、先生がガリ版と呼ばれていたヤスリ版を下敷きに、鉄筆でロウ紙に書いた原稿を謄写版で印刷していた。原稿をロウ紙に書き写す作業はガリを切ると呼ばれていた。失敗して、字を間違えたり、力を入れすぎて破れた時には、オレンジ色の修正液で固めて書き直した。インクの吸いがよくて値段の安いワラ紙とかワラ判紙と呼ばれていた安い紙に印刷するのが普通だった。
 わたしが小学1,2年生のころは先生になりたての若い先生たちが「つづり方運動」とか言うことで授業が終わった後で、子供たちの詩や作文を毎月のように文集にまとめてガリ版で印刷して、全校生徒に配っていた。表紙は色インクを使って白い画用紙に4回重ね刷りすることでカラーの表紙がついていた。B4版のワラ半紙に印刷されたものを真ん中から2枚に折り、ページ順に並べて重ね、ホッチキスでとめる。最後に表紙をつけて大きなホッチキスで表紙をつけた。自分の書いたものが印刷されて大量生産されることが不思議で、良く覗き込んだり手伝ったりした。
 印刷室には、手書きでガリを切るガリ版のほかに、手間はかかるが文字が活字で印刷される和文タイプライターも置いてあって、たまにはそちらを使って印刷されることもあった。そのころは、先生の手書きのガリ版印刷よりも和文タイプライターの活字のほうがずっと上等な感じがした。今はパソコンやプリンターでいくらでもカラー写真も活字印刷も出来るので子供のころのガリ版印刷の苦労は違う国の違う時代のことのような感じさえしてしまう。
 自分の書いた詩や作文がガリ版釣りの文集になるのがうれしくて、大人になったら、印刷や製本など本を作る仕事につきたいと思っていた。そしていつか、自分の本が出版されて、本屋や図書館に並んだら、死んでも思い残すことは無いくらいうれしいだろうなとも思っていた。
 中学生や高校生のころ、たまに学習雑誌や娯楽雑誌、新聞の読者欄に、自分の応募した作品が掲載されると、夢が実現したようにうれしかった。大人になるのが待ちきれずに、友達とお金を出し合ったり、アルバイトで稼いだお金で、ガリ版や謄写印刷機を買って、ミニコミ誌と呼ばれているような雑誌を作って知り合いに売りつけたりもした。自分の思いや作品を印刷物にするということには途方も無い労力と時間がかかった。それが余計にガリ版刷りの魅力だったと思う。
 今はパソコンとプリンターのおかげでとても簡単に自分の思いを印刷物にすることが出来る。それどころか印刷もしないで、インターネットで全世界の人にさえ見てもらうことも出来る。わたしが子供のころに学校の印刷室のインクの匂い、刷り上った文集のインクの匂いはプリンターのインクでも感じれるのだろうか。自分の作品が印刷物になった喜びを、今の子供たちは、どこでどんな風に感じているのだろう。

--- たもかく ---
 
2008年10月10日

● <南会津の森から99>池はらい


 只見のほとんどの農家の庭には池がある。今では、錦鯉を飼っている家も増えたが、わたしの子供のころは、ほとんどが黒い食用の鯉で、1割か2割程度の赤やピンクの「色鯉」と呼ばれている色つきの鯉が入っている程度だった。色鯉は錦鯉よりも地味で錦鯉とは違うといわれていた。
 海から遠いために、不意の来客があったときに、池の鯉を料理して、ご馳走することもあったが、鯉を飼うために池があったというだけでもなかった。大根などの土のついた野菜を洗うのにも使っていたし、マタタビ細工に使うマタタビの樹脂を抜くために水につけておいたり、杉の内側の皮で丈夫な縄を作る時にも長期間、池の中に浸していた。 杉の皮からはお醤油のような魚の体にも良くなさそうに見える茶色い成分が水に溶け出していたが、鯉に限らず魚は気に入らないほうには近づかないので心配は要らないのだった。杉の皮やマタタビの汁もプランクトンの餌になり、やがて魚の餌になっていたのかもしれない。
 現在は、鯉には専用の餌を買ってきて与えている家も多いが、わたしが子供のころは、残飯や野菜くず、果物の皮などだった。漬物の桶や、作りすぎてあまったおかずが傷んだときなど、鍋を中身ごと池につけておくこともあった。鯉は鶏やヤギなどの家畜を飼うのと同じように、残飯を餌として有効に利用するためにも飼われていたのだが、 家畜の餌には、これからも使い続ける桶や鍋ごと出すことはなかった。池で洗うことで、溶け出す汁までも有効に利用していたのだろうか。
 家の前の庭に池があることで、夏の暑い日には空調の役割も果たしていたのではないかと思う。最近打ち水が、気化熱で、周りの温度を下げることが注目されているが、気温よりもずっと温度の低い水が流れている池があることで、打ち水以上に周りの温度を下げていたのではないかと思う。池の水の温度が上がり過ぎないように、ぶどうを植えて池の上にぶどう棚をかけている家も多かった。
 秋の取入れが一段落し、大根や白菜の収穫が始まる前に、「池さらい」という池の掃除をする。池の鯉を、たらいやバケツ、桶などを総動員して移すか、田んぼや他の池に移して、水をバケツでくみ出して池の中の大掃除をする。時には、池の周りの石の並べ替えもする。池の底にたまった泥をスコップでさらいだして、畑に入れて肥料にする。
 池がすっかりきれいになったら、鯉を戻すのだが、何匹かは戻さずに鯉こくにしてその日のうちに料理して食べたり、何匹かは血を抜いて、塩漬けにしてからご飯と漬けて冬の間に食べるすしにした。池さらいのときには、水路から流れ込んできたイワナや、釣ってきて池に放していたハヤやフナなどは、囲炉裏で焼き干しにするか、食べきれない分は鶏の餌にしてしまう。どうせ池においても、冬の間にやせ細ってしまうからだ。子供にとっては自分の家の池にこんなにもいろんな魚がいたのかと再確認できる楽しい行事だったが、水の冷たい時期の重労働だったと思う。
 池さらいが終わるともう鯉に餌はやらない。冬の間じっと冬眠して動かなくなるのだが、餌をやると、冬眠できずに死んでしまうらしい。池の中にたくさんの鯉が冬眠している冬の間、家の周りに積もった雪を入れて、雪消しに使う大事な役目もあった。
 
2008年10月09日

● <南会津の森から21>かたゆきわたり


 雪国では、2月の末頃から天気の良い日の朝は、昼間溶けた雪の表面が凍結して
「かた雪」になる。雪原を歩いても全然沈まない。わたしが子供の頃は、学校へ行く
時も、道路は歩かずにかた雪の雪原を一直線に歩いて行く。かた雪の雪原を歩くこと
を「かた雪渡り」といっていた。いつもならひざまでぬかるむ雪原が少しも沈まずに
歩けるので、なんだか空中を歩いているような変な感じがする。雪国の冬の最大の楽
しみだと思う。今は大人の目の届かないところで事故でも起きると大変だからと、か
た雪渡りで登校するのは禁止されているようだ。凍結した雪原に朝日が当たるとダイ
ヤモンドダストを敷き詰めたようにキラキラと光ってまぶしく、現実の世界ではない
ような気になってくる。
 3月の始めになると、田んぼの掘りの上では雪が早めに消えて、少し沈んでいるの
で、堀の上だということがすぐにわかる。いつもはそういうところは、雪が抜けて堀
に落ちたりしないように、気をつけて歩くのだが、わざとその上で力を入れて飛び上
がり、誰が落ちるかを競う「ロシアンルーレット」のような危ないことをしても遊ん
だ。堀に落ちて、長靴やズボンが水浸しになることを「かびだれモチを喰う」とか
「かびだれを喰う」といっていた。たいていのばあい、運動神経の鈍い子が犠牲になっ
た。今考えれば、一種のいじめのようなゲームで、当時でも大人からは禁止されてい
たが、いつも負けるような子供でもつい挑戦してしまう雰囲気だった。
 かた雪は天気が良いと、お昼前には溶けてしまって、またもとのぬかるむ雪原に戻っ
てしまうので、夜明けから10時くらいまでしか楽しめない。かた雪の日は少し早く起
きて、家や学校の近くの山に行き、杉の葉をお尻にしいてソリの代わりに使って、てっ
ぺんから下まで滑り降りる。「ゲスゾリ」と呼んでいたがかた雪の日の最大の楽しみ
だった。杉の葉が凍結した雪原で擦れて、緑の跡がつく。かた雪の日には、山のてっ
ぺんから、滑り降りた子供の数だけのパステルグリーンのストライプ模様がつくのだ。
 ふだんなら登るのも難しいような山にやすやすと登れて、すばらしい見晴しの中を
一気に滑り降りる爽快感。そして、大自然の中に自分達がつけた緑のゲスゾリの跡。
これは雪国に育ったた子供にしか体験することも見ることもできない楽しみだった。
大人達もかた雪を利用して、山を見て歩く。夏なら草をかき分けて何時間も歩かない
といけない所でもかた雪の日なら簡単に行ける。
 なんとか、このかた雪渡りの楽しみを、まだ体験したことも見たことも無い都会の
人達や雪国以外の地域に住んでいる人達にも体験させてあげたいような気がする。
 
2008年10月09日

● <南会津の森から98>ナメコの栽培


 わたしが小学生のころ、母の実家はナメコの缶詰加工の仕事をしていた。まだオガクズで作った菌床栽培の技術は開発されていない時代だったが原木に種コマでナメコ菌を植える方法は開発されていた。奥山のブナの林を切って植菌すると、翌年から4〜5年の間大量のナメコが出た。それを竹かごにいっぱいとって山から背負い下ろす。この仕事は土木作業員の日当が500円程度の時代に家族総出とはいえ「今日はナメコがいっぱい取れて1万円になった」と嬉しそうに話すのを何度も聞いた。斜面の急な山を少なくとも30キロ、多ければ50キロくらい入れて背負いおろす重労働だが、それ以上の見返りもあった。
 農家の人が背負いおろしてきて集荷用の竹かごに入れたナメコを、母の実家のおじさんが2トントラックで集めて回った。近所の小中学生、高校生が学校から帰るとすぐに、お年寄りは1日中ナメコの軸切りのアルバイトに集まってきて、いつも20人以上、多い日は30人くらい、それでも間に合わないと、親類の家にも集まってもらった。ナメコの軸をはさみやカミソリで切り取り、大きさごとに分けていく。製缶工場の洗い場まで回す出来高払いのアルバイトで、大人の月給ほども稼ぐ小学生もいた。
 アルバイトでお金を稼げるし、村中の人が集まって口を開く時間も惜しんで働いたり、休憩の時間にお茶を飲み、お茶菓子を食べながら世間話したりするのも楽しかった。切り落とした軸の中から、食べれるところを切り取って、「軸の油いため」にするためにもらって帰ったり、出荷できないほど大きく開いた規格外のナメコをもらって帰るのもこの仕事の楽しみの一つだった。開きすぎのナメコを鰹節とお醤油だけで煮て、どろどろのトロロのような状態にしたものをご飯にかけて食べると、他のどんなナメコの料理よりもうまかった。
 製缶所では、出来高払いではなく、日給制で近所や親類の若い女性が、洗って缶に詰め、缶がぎっしり入った篭に何段も並べたまま蒸気で煮る釜に入れる。煮終わると製造番号や中に入っているナメコの大きさや品質を示す記号の入ったふたをかぶせて半自動の機械でふたを固定する。紙のラベルを貼って段ボール箱に詰めて倉庫に積み重ねる。
 思い出すと、50年前から40年前の日本の農山村は現在の中国の農山村とほぼ同じような雰囲気に感じる。最初は高級料亭などで売られていたなめこが、原木に殖菌して栽培して大量生産されるようになったのと、高度経済成長で一般家庭や食堂の味噌汁でもなめこを使うようになって消費量が爆発的に増えていくのが一致して、「ナメコの製缶所を経営すれば一シーズンで家を建ててもあまるほど儲かる」と言われていた。
 しかし、昭和40年代にナメコのオガクズ栽培が始まると、ナメコの値段は大暴落した。只見のような天然ナメコに適した、ぶなの木の豊富にある場所でなくても、オガクズを買って空調設備を整えればどこでも作れるようになった。むしろナメコの適地にはオガクズ栽培の邪魔になる雑菌も繁殖しやすいが、もっと湿度や温度の低い場所で栽培したほうが雑菌が繁殖しにくくて、生産が楽なようだ。
 オガクズ栽培の普及で只見のナメコ生産日本一の座は2度と回復することはなくなってしまった。

--- たもかく ---
 
2008年10月08日

● <南会津の森から97>イモ洗い水車


 サツマイモが栽培されるようになったのは江戸時代になってから、ジャガイモ、白菜やキャベツは明治の中ごろからなどと本には書いてある。日本全国で水田で安定して米が取れるようになったのも江戸や明治の治水工事が進んでから、などという話を読むと、いったい昔の時代には何をどんな風に食べていたのだろうかという気持ちになってくる。野菜は大根やカブ、ネギ、豆や小豆、ゴマ、エゴマ位しか思い浮かぶ作物がない。イモはトロロイモとサトイモ。ずいぶん貧弱な品ぞろいだ。
 わたしが子供のころにはイモといえば、まずサツマイモだった。ジャガイモをおやつとして食べるのは夏の収穫直後の一時期で、トロロイモもサトイモもご飯時にしか食べなかった。サツマイモはふかしたり焼いたり、揚げたりしておやつになったし、てんぷらや煮物にも入ってご飯のおかずとしても今よりずっとたくさん食べられていた。干し芋はムシロに何枚も広げるほど大量に作っていた。でも今は、干し芋を作っている光景はほとんど見なくなったし、子供がふかしイモをおやつに食べる姿も見かけない。サツマイモを食べるとおならが出やすいと信じられているのか、現在の食生活と合わなくなったのか不思議な感じがする。
 トロロイモはサツマイモに比べたらずっと安定して食べられ続けている。たまに焼いたり煮物に入れられたりもするけれど、すりおろしてトロロ汁として食べられ続けている。最近は、作っている人が老齢化してきて、イモを掘るのが大変になってきたのか、自分の家で作らずに買って食べている人も増えているようだ。秋になってトロロ芋の芋ほりをするころには、イモのツルに豆粒くらいの大きさのムカゴがつくのだが、これは「イモゴ」と呼ばれていて、フライパンで炒っておやつやおかずにしていた。これももう食べる機会はほとんどなくなってしまった。大人は秋の収穫に忙しい時期なので、以前は子供の仕事だったが、今は子供に頼む人もいないし、引き受けてくれる子供もいなそうだ。
 もっと安定して、食べられ続けているのがサトイモだ。縄文時代から食べられているという説もあるそうだ。いくら肥料をやっても枯れたりしないで大人の背丈くらいに育ち、病虫害にも強い。芋の茎は皮をむいて、ゆでて干して、おつゆの具にしていたが、これはあまり作らなくなった。
 収穫したサトイモは、洗って皮をむくのがたいへんな作業だ。イモの表面のぬるぬるしたところにかぶれる人もいる。そこで南会津では、豊富な水を利用して、イモ洗い水車の中にイモを入れて、皮むきをする。水車の胴体の板が一枚はずすことができて、そこからイモを入れて、水路に取り付けると流れで水車が回転して、中のイモはぶつかり合って皮がこすれて向けていき、取れた川は細かくなって水で流されて、30分か1時間でつるつるに皮が向けている。あまり長い時間入れっぱなしだと芋が磨り減ってなくなってしまうこともある。
 ほとんどとこの農家でも1台か2台は持っていたこのイモ洗い水車を作る人がいなくなり、10年ほど前から私の組合で頼まれて作るようになった。水路でこの水車が回っていると「南会津の秋だなあ」という気分になる。

--- たもかく ---
 
2008年10月06日

● <南会津の森から96>畦に大豆


 最近はすっかり見なくなってしまったが、わたしが子供のころには、田んぼのあぜに大豆を植えている農家が多かった。大豆はトウフや納豆、冷やし豆、打ち豆などにして大量に食べていたが、田んぼに植えられた大豆は、夏から秋にかけてエダマメ食べてられていた。現在のようにエダマメ用の品種の種を買うのではなくて、自家製の大豆を苗床に蒔いて、10センチ前後の苗になったところで田んぼの畦に植え替えていた。田んぼの畦に植えなければならないほど土地が不足していたわけではないから、田んぼの水を見に行ったついでに豆の手入れもして、労力の無駄を省こうとしていたのか、豆が育つと、少しでもあぜの雑草の管理が楽だったのか、大豆の根につく根瘤菌が空気中の窒素を固定してくれてそれが田んぼの肥やしになることを期待していたのか、はっきりした理由はよくわからない。
 でも田んぼの畦にまで大豆が植えられて育っているのをみると、この田んぼの持ち主はきっとまじめで働き者なんだなとか、いかにも農村らしいのどかな景色だなという気持ちにはなった。田んぼの畦にトウモロコシやトマトが植えられることはなかったし、同じ豆の仲間の小豆だって植えられなかったが、中国や東南アジアでも大豆を植えている地域は結構あるというから、何か大豆でなければ果たせない役割があったのかもしれない。
 畑に作られた大豆は、稲刈りが終わってから、畑から根ごと引き抜かれて、稲束と同じようにワラで束ねられ、上下をさかさまにして茅葺屋根のように斜めにより掛け合って、日光で乾燥させた。からからに乾燥して、豆が鞘から落ちてしまう前に、大きな束にして、自宅の周りに運び、今度はムシロの上に並べたり、稲をはずし終わったはぜにかけて乾かした。そして、豆がはじけてこぼれるまで乾いたら、ムシロをたくさん並べた上に、木製の板や箱を置いて、そこに豆の束をぶつけて脱穀する。この作業は「豆落とし」と呼ばれていた板にたたきつけられて、豆が飛び出るものもあるが、鞘に入ったまま枝からはずれるものもあるし、豆だけでなく、鞘や枝の切れ端などゴミ交じりの豆の山ができる。
 それを唐箕という木製の風撰機にかけて、豆とゴミとに分ける。風を強く送りすぎすると豆まで飛んでしまうし、風が弱すぎてはごみが混じる。なれないと結構難しい作業だ。きれいになった豆は、麻袋に入れて土蔵に保存する。豆のまま売ってしまうことや、豆腐屋さんと豆腐を交換することもあったが、自分の家で味噌や納豆、打ち豆の原料として使うことのほうがずっと多かった。
 納豆は冬に作ることが多かったが、味噌は冬になる前のみぞれの降るころに屋外のストーブで豆を煮て作ることが多かった。ことわざの通りに、豆ガラを燃やして豆を煮ていた。火の番をしながら、煮えた豆をひしゃくにすくってつまみ食いするのが楽しみだった。
 外国から安い大豆が輸入されるせいか、エダマメ用以外の大豆が畑に作られているのを見ることはなくなった。田んぼの畦の大豆ももう見ることはないのだろう。
 
2008年10月02日

● <南会津の森から95>壁がない家


 今年も稲刈りの季節がやってきた。稲の穂が晴天の日には、黄金色に輝いているのをみると、マルコポーロが「黄金の国ジパング」とヨーロッパに伝えた、黄金とは鉱物の金のことではなくて、秋の稲刈り前の田んぼの風景のことを間違って聞いたのではないかという気分になってくる。
 しかし、子供のころは、この黄金の波が輝く風景を見るとため息が出た。子供も労働力としてあてにされるにされていたからだ。コンバインや乾燥機で機械化される前の米の収穫作業は人力だったので、稲を刈り取って束にし、はぜにかけて、乾いてからはぜから取り外し、家の中に持ち込んで脱穀し、もみつきの米をわらで編んだカマスという袋につめて蔵に運び込み、脱穀の終わったわらはつなげというワラ紐で結んで、2階に運び上げた。昼間ばせからはずした稲を家の中に運び込んで、夜に脱穀作業をすることが多かった。
 仕事もつらかったが、家の中で、脱穀作業をするので、家中ホコリだらけになったし、見たいテレビ番組も見れないことが多かった。当時の稲の品種には麦の野毛と同じような野毛のついているものがあって、脱穀すると野毛がほこりのように空中を舞い、衣服の隙間に入り込んで皮膚をちくちくさした。作業が終わるころには、体中かゆくなった。作業を終えて、お風呂で洗い流しても、赤くはれ上がってかゆみは消えなかった。それが稲刈りが始まってから、脱穀が終わるまで1ヶ月近く続く。
 農家は住居であるとともに作業場でもあった。雪国である南会津は、さらに家畜小屋と、わらやカヤを保管する納屋の機能も一体化していた。床面積は100坪を越すほど巨大な家なのに、人間の住居として使われているのは4分の1程度で、その居住部分でさえも、農作業の都合で、畳をはがして作業場として使われることもあった。
 当時は、家の中で農作業をするときに便利なように、家の中には壁がほとんどなくて、どこもかしこも建具で仕切られていた。建具さえはずせば、家の中の仕切りが消えて、体育館のような広さが確保できるし、家の中と外の仕切りも消滅し、取り入れ作業も、運び出し作業も楽にできた。秋の取り入れシーズンには、家は柱と屋根だけになってしまい、家の中が屋根つきの屋外のように見えた。その光景を見ると、農家というのは時代遅れの住居に住んで、都会よりもずっと遅れた生活をしているんだなと思わずにはいられなかった。
 現在は機械化されて、刈り取り作業と一緒に脱穀して、乾燥機に入れるので、秋の農作業が住居の中に持ち込まれることはないし、子供が手伝う作業もなくなった。小さな農家は大規模農家に田んぼを貸して、貸し料をお米でもらうことが多い。かって作業場だったところは、床を張り替え、壁を作って部屋になっている。100坪を越える、アメリカの上流階級も負けないような広さの家に住んでいるのに、その豊かさの実感はない。農作業の手伝いや、農村の生活に嫌気をさして都会に出て行った後継ぎのいない家がたくさんあるからだろうか。
 
2008年10月01日

● <南会津の森から94>テレビが家の中の中心にあった時代


 南会津に限らず、日本中どこの家でも、居間にはテレビがあり、朝食や夕食の前後の時間には家族そろってテレビドラマやニュースを見ている家が多いと思う。しかし、最近のテレビドラマでは、家族がそろって食事をするシーンや居間でテレビを見ているシーンはあまり出てこない。結婚しないで一人暮らしをしている人が30代、40代でも増え続け、老人世帯も増え、時間の不規則な仕事をする人も増えているから、家族が居間で一緒に過す時間は少なくなっているのだろう。
 南会津地域でも、老人世帯も増えているし、結婚しないままで高齢化している世帯もたくさんある。田舎でも家族の形は多様化している。それでも、食事時には家族がそろい、短い時間でもテレビを見ている家がほとんどだと思う。
 わたしの家にテレビが入ったのは、50年近く前、小学校2年生の秋だった。地元の電気屋さんが「電波のテストをするから1ヶ月だけおいてください」というようなことを言って置いて行った。テレビのある生活をしてしまえば、ほしくなってしまい、結局買い取ることになった。実に巧妙な押し付け販売だった。そのころ、テレビは5万円だったが、農協や役場の初任給は1万円にもなっていなかった。当時の5万円は120坪の田んぼが1枚買えるくらいの価値だったので、現在なら60万円くらいの負担だったと思う。
 テレビが入って、生活が一変した。テレビの映像に移る都会の生活様式が、あっという間に田舎にも普及した。流水や地下水を煮炊きや風呂水に使っていたのが水道へ、囲炉裏でマキを燃やす生活からからプロパンガスのガスコンロと電気炊飯器へ。テレビが普及しだしたのが、ちょうど高度経済成長の始まりと一緒だから、テレビがなくても普及はしたのかもしれないが、テレビの映像を見ることで、変化が早くなったことは間違いないと思う。テレビドラマの影響で、休日に家族旅行に出かけるようになったり、外食をしたり、集落の単位で上級生や下級生と一緒に遊んでいた子供たちが、集落単位ではなく、同級生と遊ぶようになったり、生活や価値観を変える役割も大きかった。テレビ広告の影響で鉄腕アトムやエイトマンのシールや野球カードを集めたり。
 白黒テレビから、カラーテレビ、カラーテレビから、液晶やプラズマの大画面テレビへと変わってきて、テレビの画面は大きくなり続け、収入に対する価格の比率は下がり続けている。でも、少しずつ、テレビを家族で見る時間は減り続けているように見える。テレビよりもパソコンに向かっていたり、自分の部屋のテレビで、違う番組を見ていたり。極端な場合は、同じ番組を見ていても、一緒には見ていないということもあるだろう。家族でテレビを見る時間が減っていくというのは、田舎でも家族の形が多様化して変わっていることの反映なのだろう。さみしい気もする。
 
2008年09月30日

● <南会津の森から93>職場体験


 10年位前から、小学校、中学校、高校の生徒が授業の一環で、町内の企業で職場体験をするようになった。山菜工場、スーパーマーケット、電子部品工場、お菓子屋さん、ホテル、老人施設、保育所、それにわたしが代表の「たもかく本の街」にも毎年のようにやってくる。
 まだ社会に出る前に、いろんな仕事の現場を体験してみることはとてもいいことだなと思う。高校生や大学生の頃にいろんなアルバイトをしてみて、初めてわかることだらけだった。たくさん本を読んだり、映画やテレビドラマを見ていても、社会の現場の実情からはかけ離れていることが多かった。小学生や中学生が1日だけの職場体験で、そんなに多くのことを知ることはできないかもしれないが、お客さんとして、外側から見ていた時は気がつかなかったいろんなことに気がつくと思う。
 また、受け入れる工場や商店のほうでも、いつもはお客さんの側にいる子供たちに自分達の仕事場を見せるのだから少しでも、自分達の仕事の内容を正確に知ってもらい、よい印象を持ってもらいたいと思うだろう。出来ることなら、来年もまた再来年も子供たちが体験してみたいような職場であり続けたいとも思うだろう。
 受け入れ方は職場によってさまざまで、実際の仕事を体験してもらう時間は短くて、経営者が仕事の説明をしてくれたり、お昼ご飯や、そ           こで作っている製品がたくさんお土産につくところもあると聞く。たもかく本の街では、基本的に特別扱いはせずに、職員と同じ仕事をしてもらっている。休憩時間も同じて゛おやつも同じようなもの。お昼は持参してもらっている。お客さん扱いしないほうが、実際の職場の体験として役立つかなと思うからだ。でも子供たちが社会に出るまでまだまだ時間があることを考えれば、受け入れる企業ごとにさまざまな受け入れ方があってもいいかなと思う。それも職場体験のひとつだろう。
 子供たちが、本の中に挟まれているお金を見つけて届けてくれたり、倉庫の中があまりに暑くてばて気味になったり、終わった後で感想の手紙や報告書をくれたり、やってみて、受け入れ側が参考になることもある。仕事が終わってから、質問があれば答えたり、買える前に記念に一冊、読みたい本があればプレゼントしている。大人だと、イベント参加の記念に本をプレゼントするといえば、読みたい本というよりは出来るだけ高い本を選ぼうとするのが普通だ。
 しかし、子供たちはむしろ逆に高い本を選んだら迷惑をかけるのではないかと遠慮している子供がほとんどだ。遠慮しなくて大丈夫なのに、なんだか、まだまだ日本の子供の教育は大丈夫だなという気持ちになる。
 
2008年09月29日

● <南会津の森から92>民家のリフォーム


 20年前から古民家のリフォームを仕事として取り組んでいる。今年も1棟工事の最中だ。築100年以上の曲がり屋で25年位前に1度、10年ほど前に1度大掛かりにリフォームされている。しかし、そのリフォームには、プリント合板やビニールクロスが使われ、せっかくの太い柱を壁の中に隠してしまうなど、きわめてちぐはぐで中途半端なものだった。
 浴衣を着てるのにスカートをはいてるような感じですねといってお客さんと笑った。システムキッチンや薪ストーブなどは色や配置さえ考えれば古民家に似合うものもたくさんあるけれども、プリント合板やビニールクロスなどの新建材は、どっしりとした木組みの古民家の中では安っぽく浮いた感じになってしまう。せっかくの太い柱や針を壁の中に隠すと、なんだかそこの空間が不自然な張りぼてのように見えてしまう。
 古民家をリフォームする時に一番大事なことは、基本的な木組みのゆがみを直して、建てられた当時の構造を生かして、現在の生活に不便がないように、設備は最新のものをきちんと入れることだ。お風呂やトイレ、台所のシステムキッチンや照明などは、新築と同じ水準のもので古民家に合う色調のものを選ぶ。建具で仕切られた空間でも、今は建具が必要でない場所は、断熱材をきちんと入れて、漆喰壁にする。建具を減らして壁を増やすことで、部屋の独立性が向上して、プライバシーも守れるし、冷暖房の効率もよくなって住みやすくなる。
 口で言ってしまえば簡単なことなのに、実際にリフォームの経験やノウハウがないと、ついつい新築住宅の発想で新建材を使ったり、柱や梁を隠してしまいがちだ。やっぱり古民家や太い柱や針が好きでないと、良いリフォームはできないのだと思う。
 わたし自身、大黒柱が30センチ角、大黒柱にかかる鴨居梁は45センチというような古民家で生まれ育って、子供の頃から、こんな家を建てるのはクレーンや製材機のない時代に作るのはとても大変なことだったろうなと思いながら育った。でも、古民家の薄暗い家の中、無駄に大きな空間は間取りが悪くて非合理的で、部屋も少ししか作れず不経済で、2階の採光もよくなくてホコリがたまりやすく、クモの巣が張りやすく不潔で不便で住みにくいと思い込んでいた。
 考えが一変したのは、高校時代3年、大学時代4年の都会生活で、合理的で経済的で便利だと思っていた、都会の新建材のアパートや下宿に住んでみてからだ。確かに、古民家よりも部屋は明るく、狭い空間にたくさんの部屋が作れて合理的で古民家よりも掃除もしやすい。しかし、住んでいて、のびのびとした気持ちにはなれない。新建材の現代的な家は、ビジネスホテルで、古民家はスィートルームのような空間のゆとりがある。しかし、ちゃんとリフォームされていないと悪い点ばかりが目に付いてしまう。だから、いつも新築の家に負けない機能性を持ちながら、古民家の持つ空間の贅沢さを生かせるようにしたいと思う。
 リフォームした家が風景の中にいつまでも残っていくのでやりがいのある仕事だといつも感じている。
 
2008年09月28日

● <南会津の森から91>秋の種まきシーズン


 テレビドラマなどでは、夏休みの最終日にやり残した宿題を親も手伝って、大騒ぎで完成させると言うのが、決まりごとのようになっている。塾や家庭教師の勧誘の電話が来るような時代に、夏休みが終わるまで宿題が終わらないのは、とても不思議なことのように見える。わたしが子供の時代は子供は勉強は嫌いだったし、農家の子供は農作業を手伝うのが当たり前の時代だった。勉強や家の手伝いが嫌いだから、できるだけ早く終わらせてしまうと言うのが普通だった。できるところはさっさと終わらせて、わからないところは友達に聞いたり、丸写しさせてもらっていた。夏休みの最初の1週間で、宿題はすべて終わらせて、思い切り川で遊ぶと言うパターンだった。夏休みは10時過ぎには川へ行き、昼食に戻って、また夕方まで川で遊んだ。
 しかし、いくら宿題を早くかたづけても、朝と夕方の涼しい時間には、家畜への餌やりや草むしりなどの農作業の手伝いがあった。夏休みの農作業の手伝いと言えばジャガイモ堀だが、これは涼しい時間だけと言うわけには行かなかった。今とは違って、半端ではない量を作っていた。どこの農家も300坪以上、家畜を何頭も飼っている大きめの農家は600坪程度は作っていた。自分の家で食べる分だけでなく、出荷もしていたし、余れば家畜の餌にもしていたからだ。
 ジャガイモ堀は何日もかかるし、真夏の炎天下での作業になるうえに、重いのでかなりたいへんな作業だった。今は自分の家で食べる分しか作らないので、多い人でも10坪も作れば十分だ。これくらいなら、子供が手伝う必要はまったく無いし、仮に手伝っても楽しい遊び程度にしか感じないような気がする。
 ジャガイモ堀はどんなに遅れても、8月のはじめには終わらせる必要があった。ジャガイモを収穫した後に、大根や白菜をまくからだ。今は、田んぼを減反しているので畑はいくらでも余っているが、わたしが子供の頃には、連作の障害が起きないように、限られた畑でどんな作物をどこの畑に作るかは農家の頭を悩ます大問題だった。ジャガイモの後は白菜か大根、そばと決まっていて、どれもお盆の前に種をまかないと、秋の収穫が遅れてしまったり、十分に大きくならないと考えられていた。間に合わないと、農作業はしてはいけない日とされていたお盆の日なのに、種をまいてる人もいた。今は品種改良のせいもあって、短い期間で育つ白菜や大根もたくさんあるので、お盆を過ぎてからまいている人も多い。
 大根以外の多くの秋野菜は明治になってから作られ始めて、本格的に普及したのは大正時代だそうだ。白菜やキャベツも無い時代には、どんな野菜で漬物を作っていたのか、今では想像することもできない。お盆前に秋野菜をまかなければと、子供も手伝って、一家総出でジャガイモ堀をしていた時代があったなんてことも、後の時代の人には想像もできなくなってしまうのだろう。
 子供が夏の炎天下で家の仕事を手伝うよりは、子供の夏休みの宿題を大人が手伝うほうが豊かな社会ということなのだろう。

--- たもかく ---
 
2008年09月25日

● <南会津の森から88>桐


 たもかくの森の入り口に自慢の桐の木がある。直径は1メートルくらいで、昭和40年代はじめに自然に生えたものと聞いているので樹齢はまだ40年ほどだ。普通の木材を売買するときには、体積が基準で立米いくら、石いくらと言う言い方をする。これに対して、桐の場合は、たんすが一竿作れるかどうかを基準にして玉と言う単位を使って売買される。
 つまりいくら太くても、中途半端なところから枝が出ていたり、傷があったりすると、たんすが作れなくて、安くなってしまう。逆に細く見える様でも枝の張り具合がよくて、効率よく二つも三つもたんすが作れるような場合はその桐はずっと高値になる。もちろん、うんと太くて、傷が無ければ一番いいのだが、桐は育ちのいい木で、それだけに傷や病気も入りやすい。
 たもかくの桐の木が自慢の桐の木なのは、山に生えていて、病気や傷がないので、たんすよりも高い用途である琴の胴がいくつも取れると、琴を作っている業者が欲しがっているからだ。切ってお金に換えてしまうのがなんだかもったいなくて売らないできたのだが、今年は葉の出具合がいつもよりもよくないように見える。
 わたしが子供の頃はどこの農家も女の子が生まれたら、嫁入り道具を作るためにと、家の周りに桐を植えるのはもちろん、少し山すその、畑としては条件のよくないような場所に桐畑を持っていた。あまりいい畑に桐を植えると育ちがよすぎて目が粗くなるし、育ちがよすぎると病気になったり、傷が出やすいので、山すその条件のよくない畑のほうが桐にはいいと教えられた。いざと言うときに、桐を売って現金にするための貯金のようなものだった。子供の頃に只見線で隣の金山町や三島町を通る時には只見よりも立派な桐畑があった。あれがみんな高く売れるんだなと思うと、子供でもうらやましかった。20年育てた無傷の桐はサラリーマンの1月分の給料よりも高いと言われていた。金山、三島、柳津のあちこちに桐の下駄にするための荒削りした桐が巨大なサボテンのような形に積んであって、桐の栽培や加工は会津の地場産業なんだなと感じていた。
 しかし、今は只見で新たに桐を植えているという人は一人もいないだろう。インドやアメリカの安い桐が輸入されるので日本の人件費で桐を育てても、手間にもならないからだ。桐は荒地を開拓したり、焼畑をしたり、山の杉を切り出した跡地など、人間が切り開いた場所に自然に芽を出し、他の樹木とは比べられないような巨大な葉をつけて、1年に2メートルくらいずつ成長する。切っても切っても、根っこが残っている限り再び生えてきて、根が大きければ、1,2年のうちに切られた分を取り返すほど成長する。独自の渋が強くて、虫を寄せ付けず、火に燃えにくく、水にぬれにくくて、軽い。丈夫なのに刃物に対しては柔らかくて加工しやすい。どうしてこんなに人間に都合のよい植物があったのだろうと驚いてしまう。
 日本の寿司や刺身が世界中で見直されて、魚の値段が高くなっていると騒がれているが、わたしは世界中の人が桐を見直し、子供が生まれたら、植えて育てたり、家具や建築材として使う日が来ると思っている。

--- たもかく ---
 
2008年09月25日

● <南会津の森から89>川によどみがない


川原の砂利の採取が原則禁止になってずいぶん経ち、ヤナギの木が大きく育ち、葦の密生地も広がっている。下水道の整備も進んで、川原で目に付いていたゴミも少なくなり、野鳥の姿はわたしの子供の頃よりも多いくらいだ。わたしが子供の頃にはたまに鴨を見つけて大騒ぎするくらいで、川鵜や青鷺など一度も見たことは無かった。それが今は川に行けばいくらでも目にするようになった。
 橋の上から川を眺めていると、水もずいぶんきれいで、ハヤの群れも見える。しかし川に入ってみると、川の様子が変だ。川原の石が砂に埋まっていて、魚や虫が石の下にもぐりこめないようになっている。これでは棲める生き物は限られてしまう。石の下にもぐりこんで隠れることが出来ないために、川鵜や青鷺などの鳥にも狙われやすい。
 川にいるのは人間が放流している鮎とハヤ、泥の多い水のよどんだ場所にたまにフナがいるくらいで、わたしが子供の頃によく見ていた、カマツカ、オイカワ、クチボソなどの魚はほとんど見かけなくなった。中でもわたしが一番がっかりするのは伊南川の本流でカジカをほとんど見かけなくなってしまったことだ。
 カジカは川の上流から下流まで棲んでいて、にごっている水や汚れの激しい川では棲めないが、清流で無いと棲めない魚ではない。ハヤや鯉に比べたら、汚れに弱いかもしれないが、鯉科以外の魚では環境に対する適応力は抜群の魚だ。岩魚がいるような水温の低い清流から、海に川が流れ込む河口周辺など、汽水域の魚がいるような水温の高い場所にもいる。
 カジカは鳥などの外敵から身を守るために体の色を変えたり、石の下にもぐりこんだり、川底を這うように泳いでいる。卵も石の裏側に産んで孵化するまで、雄が守っている。
 公共の土木工事で川原の大きなよどみや大きな石を取り去ってしまったため、川原の中で魚が回遊する空間が小さくなってしまったり、雪解け水の急流で川底が現れる力が小さくなって、石が砂に埋まったままになっているのかなと思う。同じ流量の川でも、よどみが大きくて、貯水量が大きければ魚もたくさんすめる。川が深ければ鳥にとられてしまうことも少なくてすむ。大雨などで一時的な汚れがあってもよどみで沈殿して下流まで汚れた水が流れていくことも少なくてすむ。
 大きなよどみや大きな石を撤去してしまうのは水害を恐れてのことだろうと思うが、洪水の危険はいつもあるわけではない。川の汚れや魚がいるかどうかは毎日の生活にかかわる問題だ。数十年に一度、数百年に一度の洪水に対処するためなら、大きなよどみがたくさんある川のままでも、川原の中や川沿いに遊水地を作ったり、川幅が急に狭くなっている場所を改修して非常時にスムーズに水が流れるようにしたほうがずっと効果的だと思う。
 カジカのいっぱいいる川、大きなよどみのある川をもう一度取り戻したい。

--- たもかく ---
 
2008年09月25日

● <南会津の森から90>ススキが風にゆれる


 もうだいぶ前のことになるが、何十年も花つくりを続けてきた人から、「十五夜の前はススキが花よりも高く売れる」と聞いた。ああそうだろうなと思った。少し都会をはずれれば、ススキはいくらでも生えているけれども、都会ではまず見ることは無い。でも十五夜のお供えにススキは欠かせないものの1つに思える。他のものがなくても、ススキが飾ってあるだけで秋が来たような気分になれる。
 子供の頃、ススキは憎たらしい植物に見えた。雑草の中で一番背が高くて、うっかりつかむと手が切れる。荒らしている畑にカヤが生えてしまうと退治するのがとてもたいへんだった。誰もススキなどと言う言い方はしないでカヤと呼んでいた。
 カヤと同じような雑草でも川原に生えているアシは軽くて、扱いやすかった。カヤもアシも牛の餌や敷き藁にするために刈り取っていた。カヤは冬囲いや屋根を葺くのにも使われていたが、軽いアシにしてくれればいいのにと何度か思ったことがある。
 屋根をカヤで葺いていたのは昭和30年代くらいまでで、囲炉裏でマキを燃やすを止めて、ガスを燃料として使うようになるのと同じ頃に葺き替えの時期が来た家から順にトタン屋根に替わって行った。カヤ屋根だと雪が滑り落ちることは無いので、冬は屋根に上って雪下ろしが必要だ。トタン屋根なら、自然に滑り落ちてくれるので下に落ちた雪を片つけるだけでいい。カヤ屋根を葺き替えるときには、自分の家で集めたカヤだけでは足りずに、近所の人からも借りて葺いたり、屋根葺き作業も手伝ってもらう必要があった。それがトタン屋根に葺き替えるだけなら、数人の大工さんと屋根屋さんだけで葺き替えが終わる。
 カヤ葺き屋根をトタン屋根に変える場合には、カヤ屋根の上に下地を作って、カヤ葺き屋根の時の形のままトタン屋根にする工法と、カヤをすっかり取り払ってしまってから木材で屋根を作り直してからトタン屋根にする工法がある。カヤ葺きの形を残したほうが、家の形のバランスはいい。しかし、屋根ごと作り変えたほうが、2階に部屋を作ったり、窓をつけたりと、家全体の空間が使いやすくなる。どちらかと言えば屋根ごと作り変える家のほうが多数派だった。
 カヤ屋根を取り払った家では、そのカヤを腐らせて肥料にするために畑に積んでいた。するとそこには翌年からカブトムシが驚くほどたくさん棲みついている。屋根の上なら、20年以上も持っていたカヤが畑に積まれたとたん、わずか2年ほどの間に真っ黒い肥料に変わってしまう。腐るせいもあるが、カブトムシの幼虫のえさとなって、やがて糞になってしまうからでもある。
 最近は、もう新しくカヤで屋根を葺くのは文化財くらいで、一般の家では皆無に近い。カヤの冬囲いもないし、家畜の餌や敷き藁にすることも無い。穂が出る前のカヤを刈り取って干し、畑の敷き藁代わりにする人がほんの少しいる程度だ。今では、子供たちはカヤと言わずにススキと呼ぶ。
 いたるところカヤだらけの田舎でも、もう使い道は十五夜の日の飾り物にするくらいだけになってしまった。

--- たもかく ---
 
2008年09月16日

● <南会津の森から87>ヤマユリ


 たもかくの森の一角でヤマユリが目立ちだしたのは3〜4年前のイベントの準備のため下草刈りのころからだ。ヤマユリは只見のいたるところに自然に生えていて、特別に珍しいものではないが、自然の花とは思えない豪華な感じと、夏の草が伸びている緑一色の風景の中に白い大きな花が咲いている風景はいかにも夏の風景という感じがする。それで下草刈りをしてくれている造林業者の人にユリの花だけは刈らないように頼んだ。
 すると毎年のように、倍増して、今年は花のつぼみの数が200以上になった。1本の茎に4つも5つも花をつけているものもあるので、本数としては50本程度かもしれない。でも勢いよく増え続けて、夏の森にも見に行きたくなるような魅力の1つになっている。今までは自然に増えるのに任せていたのだが、今年は秋のイベントの時にでも、この森のユリの花から種をとって、まだ咲いていない場所にもまいてみようかなと思う。
 ヤマユリの花は1年に1つずつ花の数を増やしていくので、5つ花をつけているのは5年目で3つけているのは3年目、1つのは今年が咲きはじめなのだそうだ。だから、何もしなくても、今生えているユリに咲く花だけでも、来年は50以上も花が増えるし、自然にこぼれた種から生えてくるものだけでも、何十本ものユリが増えていく計算だ。人が種をまいて増やすのは自然増えていくのに任せるよりもちょっと早めることになるが、もともとこの森に咲いているゆりだからいいかなと思う。
わたしが子供の頃は、森の中には今よりもっとたくさんのヤマユリが咲いていた。どこの農家も牛や羊などの家畜を飼っていて、自分の家の畑や土手の草だけでは足りずに、山の下草も餌として使っていた。頻繁に草を刈っていると、ヤマユリのように球根が残ったり、ワラビのように地下茎が残っているものは、生き残って増えていく。気がつけば刈り取らないで残しもいたのだと思う。
 山にいくらでもあるのに、農家の家の周りにもヤマユリは花を楽しむために植えられていた。農家の子供なら、ヤマユリの花びらを丁寧にもんでから、花びらの付け根から息を吹き込んで、ユリの花びら風船を作って遊んだことがあるはずだ。
 でも今は、花粉が嫌われて、黄色やオレンジ色のもっと派手な色のユリが植えられていて、ヤマユリが農家の家の周りで咲いているのはめったに見なくなった。わたしの祖父の時代には、ユリの球根を中国へ輸出したことさえあったと何度も言っていた。家の周りはともかく、夏の山へ行ったら一面にユリの花が咲いている風景をみんなに見せてみたい。
 花がたくさん増えたら、去年までは気がつかなかった、ユリの花を食べてしまう虫がいることに気がついた。200を超えていたつぼみの内、50くらいが食べられてしまった。自然界では同じものが増え続けるとそれを餌にする虫も集まってきてしまうのだろう。でも、来年も虫になんか負けずに倍増するだろうと期待している。

-- たもかく --
 
2008年09月11日

● <南会津の森から86>開墾農業


 田んぼを長いこと荒らしていると、ヤナギの木が生えてきて、簡単には元の田んぼには戻らなくなってしまう。ヤナギを切って根を引っこ抜いても、田んぼに水をためる粘土のように細かい泥の層を根が突き抜けて、水が漏れてしまう「ザル田」になってしまうからだ。これを元に戻すには水を張った田んぼの中を何度もブルドーザーのような重機で行ったり来たりして、水と土をかき混ぜて、泥が均一に沈殿するようにする必要がある。つまりは、荒地を開墾して新しい田んぼを作るときと同じような作業が必要になるのだ。
 畑は長いこと荒らしていると、最初はいろんな雑草が生えていても、終いには茅が生えてきて、これもバックホーのような大型の重機で根っこごと取り除かないと、元の畑には戻らない。これも荒地を切り開いて畑を作るときと同じ作業だ。
 今、南会津の山すその農地は条件のよくない場所からどんどんただの荒地と変わらないような風景に戻っている。40年近く前に始まった減反政策で補助金をもらって田んぼを畑として使うようになったために条件の悪い畑を無理して作る必要が無くなり、まず畑が荒れだした。そのうちに田んぼも条件の悪いところは減反して作らないようになって田んぼも荒地になり出した。
 美しい日本の田園風景に少しずつ荒地が増えて見苦しい風景がじわじわと広がり続けている。わたしの子供時代はこれとは逆に、まだ日本は米の自給もできていなかったから、荒地を開拓して田んぼや畑にすることも多かった。重機が無かったので農閑期に一家総出の人力で開墾する。森を畑にするときには、木やツルの根っこを抜いたり、石を拾い集めたり、川原の泥を新しく畑にしたい土地に客土したり。農家にとって、開墾で農地が増えるのは、毎年の農業収入が増えるだけでなく、価値の低い荒地が財産として価値の高いものになるのだから、作物の収穫以上の達成感のある仕事だった。新しい畑に作物の芽がでたり、新しい田んぼに田植えが終わったときには、感動してしまう。
 いろんな農作業を手伝って、苦しくつらいだけで、何のためにやっているのか疑問を感じるような仕事もたくさんあったが、開墾は子供でもやりがいや達成感をストレートに感じる楽しいものだった。たぶん、農業をやったことのない都会の人でも、やれば皆なんともいえない充実した気持ちになるような気がする。
 仕事としてももちろんだが、休日の時間の過し方、リタイアした人の楽しみとしてもやりがいのあることだと思う。畑つくりをしたい都会の人たちがいっぱいいるのにそれを農地法でやれないように制限し続けながら農地が荒れていくのにまかせているのか深い疑問を感じてしまう。荒れていく風景を見ていると、田んぼや畑を作りたい人にもっと自由に貸したり売ったりできるように制限を緩めて欲しいと切実に思う。それ以上に、できるだけ多くの人に開墾の楽しさ、充実感を実際に経験してもらいたいものだと思う。
 
2008年09月11日

● <南会津の森から86>開墾農業


 田んぼを長いこと荒らしていると、ヤナギの木が生えてきて、簡単には元の田んぼには戻らなくなってしまう。ヤナギを切って根を引っこ抜いても、田んぼに水をためる粘土のように細かい泥の層を根が突き抜けて、水が漏れてしまう「ザル田」になってしまうからだ。これを元に戻すには水を張った田んぼの中を何度もブルドーザーのような重機で行ったり来たりして、水と土をかき混ぜて、泥が均一に沈殿するようにする必要がある。つまりは、荒地を開墾して新しい田んぼを作るときと同じような作業が必要になるのだ。
 畑は長いこと荒らしていると、最初はいろんな雑草が生えていても、終いには茅が生えてきて、これもバックホーのような大型の重機で根っこごと取り除かないと、元の畑には戻らない。これも荒地を切り開いて畑を作るときと同じ作業だ。
 今、南会津の山すその農地は条件のよくない場所からどんどんただの荒地と変わらないような風景に戻っている。40年近く前に始まった減反政策で補助金をもらって田んぼを畑として使うようになったために条件の悪い畑を無理して作る必要が無くなり、まず畑が荒れだした。そのうちに田んぼも条件の悪いところは減反して作らないようになって田んぼも荒地になり出した。
 美しい日本の田園風景に少しずつ荒地が増えて見苦しい風景がじわじわと広がり続けている。わたしの子供時代はこれとは逆に、まだ日本は米の自給もできていなかったから、荒地を開拓して田んぼや畑にすることも多かった。重機が無かったので農閑期に一家総出の人力で開墾する。森を畑にするときには、木やツルの根っこを抜いたり、石を拾い集めたり、川原の泥を新しく畑にしたい土地に客土したり。農家にとって、開墾で農地が増えるのは、毎年の農業収入が増えるだけでなく、価値の低い荒地が財産として価値の高いものになるのだから、作物の収穫以上の達成感のある仕事だった。新しい畑に作物の芽がでたり、新しい田んぼに田植えが終わったときには、感動してしまう。
 いろんな農作業を手伝って、苦しくつらいだけで、何のためにやっているのか疑問を感じるような仕事もたくさんあったが、開墾は子供でもやりがいや達成感をストレートに感じる楽しいものだった。たぶん、農業をやったことのない都会の人でも、やれば皆なんともいえない充実した気持ちになるような気がする。
 仕事としてももちろんだが、休日の時間の過し方、リタイアした人の楽しみとしてもやりがいのあることだと思う。畑つくりをしたい都会の人たちがいっぱいいるのにそれを農地法でやれないように制限し続けながら農地が荒れていくのにまかせているのか深い疑問を感じてしまう。荒れていく風景を見ていると、田んぼや畑を作りたい人にもっと自由に貸したり売ったりできるように制限を緩めて欲しいと切実に思う。それ以上に、できるだけ多くの人に開墾の楽しさ、充実感を実際に経験してもらいたいものだと思う。
 
2008年09月09日

● <南会津の森から83>グミの季節


入梅の頃には夏グミが赤くなる。グミは不思議な果物だ。食べてまずいわけでもないのに、果物屋に並んでいるのを見たことがない。でも、わたしが子供の頃はどこの農家も何本ものグミを家の周りに植えていた。夏に実をつけるものが3本くらい。秋に実をつけるのが2本くらい。実が細長いものが多かったが、中には丸い実をつける品種もあった。品種改良がされている話も聞かないのに、ずいぶんといろんなグミの木があった。
赤くなるのが待ちきれずに、オレンジ色くらいで甘酸っぱいうちに食べつくしてしまうことが多かった。種を吹き出すのが面倒で種ごと食べて叱られことも多かった。グミの木の周りに行儀悪く、種を吹き出してしまったり。熟れてくるとハチが集まってきて、刺されたこともあった。
秋グミは川原には野生種がいくらでも生えていた。ヤナギが密生しているところを「ヤナギもだ」と呼んでいたが、「グミもだ」もヤナギに負けないくらいいたるところにあった。ところが今、川原に行っても、ヤナギはいくらでもあるのに、グミもだはもちろん、グミの木は1本も見つからない。不思議なこともあるものだ。川原に残らなければ川沿いの土手や、藪の中にでも残ってもよさそうなのに、まず見つからない。川の環境がぐみに似合わなくなってしまったのだろうか。
農家の庭先のグミの木も切られて減る一方だ。子供がいないとグミを食べる人もいなくて、ハチや野鳥が来て、食べ散らかして、汚いから、嫌になってしまうのかもしれない。
都会から地元へ帰ってきたばかりの頃、グミをホワイトリカーにつけて、果実種を作ってみたことがあった。実は赤いのにきれいなピンク色になり、とてもきれいなおいしい果実酒ができた。翌年調子に乗ってたくさん作ってグミの実を取り出すのが遅れたら、発酵して、ビンのふたが飛んだ。調べてみたらグミはブドウと同じように果実酒にしていい果物のリストには入っていなかった。グミにはお酒に発酵する天然の酵母がたくさんついていて、種を除いて、ジュースにしてしまえば、自然発酵でお酒になってしまうようだ。
ぐみの木が大木に成長しているのはあまり見ないが、近所には10メートルくらいまで育って、はしごをかけないと取れないほどの高さにまで大きくなっている木もある。グミの気が大きくならないのは、子供たちが取りやすいように、芯を止めて、上に伸びないようにしているだけなのかもしれない。
川原に自然に生えていたグミの木がなつかしくて、何とか復活できないものかなと思っていたら、南会津町の高杖の山には野生のグミの木がまだたくさんあった。高杖は南会津を流れる伊南川の上流の位置にあるから、只見の川原にあったグミの木ももともと高杖の山のグミが下流に流れて、川原のグミになったのかもしれない。今年は何本かもらって、川に植えてみようかなと思っている。

--- たもかく ---
 
2008年09月09日

● <南会津の森から84>クリの花


 6月の末から、7月のはじめの梅雨の真っ只中がクリの花の季節だ。クリの花は匂いが強烈な梅雨せいか、雨の多い時期に色鮮やかなきれいな花が咲いているわけでもないからか、あまり話題になることが無い。バラや桜の花のように、文学作品で取り上げられたとか、タイトルになったという話も聞かない。季節の風物を表現する俳句や短歌でもあまり取り上げられてはいないようだ。
 クリの実のほうは、秋の風物として、イガに入ったものも、イガから出たものも、写真で見る機会はよくある。クリの写真を見ただけで秋だと感じることができるほどよく知られている。クリ羊羹や焼きグリ、クリ入りの饅頭、マロングラッセなどを食べたことがない人はいないだろう。クリやイガの絵をかけない子供もほとんどいない。
 しかし、クリの花の絵を描いてみてくださいといったら、いたるところクリの花だらけの田舎に住んでいる子供でも、絵に書けるほど正確に花の形を知っている子供は一クラスに何人もいないと思う。クリの花の写真が新聞や雑誌、テレビなどで紹介されることはめったに無い。都会育ちの人など、クリの花など見たことも無い人が多いに違いない。しかし、クリの花の匂いが人間の精液の匂いにそっくりなことはよく知られていて、「クリの花の話をして、赤くなったり、変な顔をしたら、男性経験がある証拠」などという冗談のほうは、本物のクリの花よりもよく知られている。花の形もわからないまま匂いだけはこれほどよく知られている花は栗の花くらいではないだろうか。
 薄く緑がかったしろい小さな花が集まって、長さ10センチ直径10ミリくらいの花房になっていて、その花房が栗の木の枝先から、1箇所に10本くらいまとまってついている。良く見ればきれいな花だ。花の時期はクリの木全体が、花で葉が隠れるほどなのに、葉とあまり違わないような花の色のために目立たないのだ。晴れた日には、ミツバチが、蜜を集めて飛び回っている。ミツバチが蜜を集めるときに花粉をつけることで受粉する。クリの蜂蜜は黒っぽい色をしている。明るい色のトチやレンゲの蜜ほどの人気は無かった。花も知らないのだから、蜂蜜にばかり人気が出るはずも無い。
 受粉の時期が終われば、花は茶色く変色して、落ちてくる。7月後半の時期に、クリの木の下に行けば、茶色くなって干からびたクリの花房がびっしりと敷き詰めたかと思うほど落ちている。しかし、それが誰かの目に止まってクリの花の抜け殻だと気にとめられる機会も少ない。つくづく地味な花だ。わたしは木の実のクリも、樹木としてのクリの木も、材木としてのクリの木も、花としてのクリの花も好きだ。
 なんだか、もっとクリの花のことをたくさんの人に知ってもらえるように応援してやりたいように気持ちになってしまう。
 花の時期に長雨が続けば受粉できなくて、栗の実も不作になってしまうだろう。だから今年のような空梅雨で晴れた日が多ければ、栗は大豊作になるかもしれない。

--- たもかく ---
 
2008年09月09日

● <南会津の森から85>アイガモ


 只見にも合鴨農法で田んぼを作っている人がいる。1ヶ月ほど前に50羽ほど雛が来て、野良猫かキツネなどに襲われて、12羽減って、現在は36羽になっている。雛が来たときにブログやSNSに写真を載せたところ「見に行きたい」「秋になったら食べたい」「秋になっても食べないで飼っててもらいたい」とすごい反響があった。田んぼで泳いでいる合鴨の写真をパソコンの壁紙にしている人も何人もいるらしい。
 合鴨は鴨とアヒルのあいの子で、鴨のように飛ぶことはできない。アヒルのように雑食で稲を倒して歩くようなこともない。田んぼの中に餌をまいておくと、その餌や草の芽を食べたり、水かきで泥をかき混ぜることによって雑草が生えないようにしてくれる。アヒルと鴨の両方の性質のうち田んぼの草取りに都合の良い性質を受け継いでくれている。
 田んぼの草取りはたいへんな重労働だった。稲と稲の間を木で作った両手で押しやすい形の柄の先に鉄製の水車がたくさんついた除草機を人力で押して歩いていた。鉄の水車が泥をかき混ぜながら雑草を引き抜いて、泥の中に押し込んでくれる仕組みだ。これだけだと除草機の水車が入り込めない場所に残ったひえなどを手で抜いて歩かなければならない。四つんばいになって、稲で手や顔をこすられながらの重労働だ。
 だから、稲以外の草を枯らしてくれる除草剤が登場すると、農家は皆使うようになった。しかし、除草剤には、残留毒性の心配もあるし、水中の酸素を奪って雑草を枯らすタイプでもトンボのヤゴやドジョウなどの害虫を食べてくれる生き物も殺してしまう。結局ニカメイガやカメムシのような害虫は生き残って繁殖するので消毒もたくさんしなければならない。
 そこで、有機無農薬、あるいは有機低農薬の自然にやさしい農業を目指す人達から合鴨農法が始まったのだと思う。田んぼに合鴨のような生き物が飼われて鳴き声がしたり、姿が見えることも田舎の魅力のひとつだと思う。
 わたしが子供の頃、わたしの家では、苗代の田んぼでは、鯉で除草していた。自宅の池で孵化させて育てた、2年目の5センチくらいの鯉を田んぼに放すと、虫や草を食べながら成長して、夏の終わりに池に戻す頃には15センチ以上に育っていた。代わりに池からは大きな鯉を上げて食用にしていた。田んぼから逃げ出した鯉が、用水路にいて大きく育ったり、時々田んぼの中で鯉が銀色の腹を見せたり、虫をとるために飛び上がった水音がしたり。
 合鴨農法が広まって、また生き物がたくさんいる田んぼや水路が戻ってくるといいなと思う。都会の人達が、合鴨や鯉を見に来たときにホタルとトンボがいると喜ぶだろうなと思う。

--- たもかく ---
 
2008年08月20日

● <南会津の森から82>消えたヒメサユリ


 5年ほど前、たもかくの管理している森のヒメサユリが急に増えて、200株くらいになったことがあった。間伐をして、林床に日が差すようになったことで、それまで花が咲くまでは育てなかったヒメサユリがの花が咲くようになったので、急に増えたように見えたのだろう。これはカタクリに続くたもかくの森の名物になると思って喜んでいた。
 しかし、今年見に行ったお客さんが、どんなに良く探してみても、山全体で30株もなかったという。さては、即売所などで売るために誰かが盗んで行ったのではないかと思い見に行った。盗まれたにしては地面に堀った跡はない。仮に花のない時期に盗まれたとしても地面を掘ったあとは残るはずだ。2回見に行ったが、やはり30株程度しか見つからない。となると、ネズミやモグラが球根を食べてしまったことも考えられる。2年前にブナの実や笹の実が大豊作で、ノネズミが大繁殖した。普段はノネズミは山やせいぜい畑にいて、人家に入ってくることは無い。人家にはノネズミよりも大きいネズミが住み着いているからだ。しかし、あまりにも数が増えて、餌がないせいか、家の中にもずいぶん入り込んできた。用水路で大量に溺れ死んで水路が詰まったりした地域もあったそうだから、ヒメサユリの球根だって食べられてしまっても不思議は無いかもしれない。
 農家が畑で大量にヒメサユリを栽培すると、モグラに畑を全滅させられることもよくあるそうだ。しかし、すぐ近くにヒメサユリよりもずっと大きな球根をつくるヤマユリもたくさん生えているがこちらは無事だ。いくらヒメサユリの球根がおいしくても、ヤマユリが無事でヒメサユリの球根だけが食べられてしまうというのも不自然だ。
 ヒメサユリが急に増えたのは、旱魃をした翌々年で森の日当たりが良くなったからだった。もしかすると、それからまた間伐が必要なくらいに樹木や下草が生長してしまい、花が咲くのに十分な日光が当たらなくなっているのかもしれない。あるいは日当たりが悪くなった分だけ、花の咲く時期が遅れてしまったのかもしれない。しかし、それなら、日当たりのいいところには大量に残っているはずだが、そうでもない。
 これから何度か、調べに行ってみるつもりだが、とにかくヒメサユリの花が急に減った原因が何であれ、森の間伐が必要な時期になっていたことだけは確かだ。今年中に間伐と下草刈りをして、もう一度たくさんのヒメサユリが咲く環境にはしなければならない。
 間伐や下草刈りは、夏の暑い時期にすると、樹木や草の根が腐りやすくて、次の年から生えにくくなるので効果的だが、この時期にやればヒメサユリまで刈払うことになる。
 花が咲くのが遅れているだけならいいんだけど、という期待をしながら、原因を探しを続けている。

--- たもかく ---
 
2008年08月19日

● <南会津の森から70>春木山


 今は死語になりつつあるが,わたしが子どもの頃は3月の雪解けが始まる頃に山仕事をする事を「春木山」と呼んでいた。
 春と言っても雪が溶けてしまってからでは遅い。雪が溶けてしまうと,冬眠していた木が水を吸い上げて活動が活発になってしまう。水を含んだ木は重いし,腐りやすいし,虫もつきやすい。もっと大きな理由は,切った木材を雪の上をソリを使って運び出すためだった。木材を運び出すためのソリはホウやブナやトチの木で自家製だ。ソリ